以前ご紹介させていただきました、加納先生の書。
解読ができなかった書について、ありがたくコメントをいただきました!
解読してくださいましたのは、加納守拙先生が大叔父さま、おじいさまの弟でいらっしゃるという、
高澤翠雲先生です。
本当にありがとうございます。
ありがたく、この書の解説を掲載させていただきます。
加納守拙の二枚目の作品の読みは『寂寞無事哉』です。
寂寞の寞は莫と書いてあります。意味は同じです。
出典は解りませんが、禅語集か良寛の句ではないかと思います。
寂莫の莫はなかれというひていの語ととられるかもしれませんが、これは上の寂と同じような意味を重ねた、しずかにとか、ひっそりとか、しじまという意味と思います。
昔は寂寞も寂莫も同じような意味に使われていたようです。
読みは「せきばく」「じゃくばく」「じゃくまく」「せきまく」などあります。
もともと漢字は漢音、呉音、唐音の三種類の読み方があり、面倒くさいからと一字一音漢音に統一されたのは国の政策です。
無事というのは普段使っている意味合いとはちょっと違って、求めなくてもよいことに気づいた、安らぎの境地の事をさす禅語としての意味合いがあると思われます。
『寂莫無事哉』「寂莫として無事かな」は(ひっそりと何も求めない安らぎの境地である)というような意味かな。色々やかましい喧噪から離れて、富士宮へ移って「今は静かに馳求心を捨てきったさわやかな心境であるよ」と守拙禅師が笑っているようです。。
気功の練習の心得に、「寂」というものがあります。
お配りしている「寂」のプリントの解説です。
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ひとりの人は、ひとつの宇宙です。
そして、私たちは、それぞれ自分の宇宙の中で唯一無二の存在、
一番高い存在です。
ですから、人は、幽(大変静か)の境地から自分を全面的に観て、自分を創造することができるのです。
この宇宙的な自分と、今認識している自分との境をあわせていくことで、心も身体も健康になり、さまざまなことが可能になります。
『寂寞無事哉』
この境地は、おそらく、自分で行った人でなければ、わからない、
言葉では言い尽くせない世界と思います。
けれども、これは、実は、「たんとう功」という形ある、見えるものとして、体現できるのだ、
とひらめいたのでした。『寂寞無事哉』=「たんとう功」です。
けれども、形だけではなく、本当に『寂寞無事哉』となるのには、長い長い時間の修煉が必要です。
そして、『寂寞無事哉』となったならば、おそらく、6時間立つことも一瞬のように感じることと思います。
いつかその境地にたどりつける時を、身をもって体験するのを楽しみに、長生きして、気功の修煉を続けたいと思いました。
時を超えて、加納先生がメッセージを送ってくださったようです。
そして、良寛さんの句?
昨年、ご縁があって、書を拝見したことを、ブログに掲載したこともあり、とてもうれしくなりました。
今回、幸運なことに、高澤翠雲先生にお会いすることまでできました。
おだやかで、とてもお優しくて、本当にうれしかったのです。
その時に高澤先生の先生でいらっしゃる手島右卿先生の筆を触らせていただきました。
触ったとたんに、
長い長い年月忘れていた故郷? 私はここから来たんだ、と、
なんだかとても懐かしくて、ほっとして、ああ、そうだったよ、と、
そして涙が溢れてどうしようもなくなりました。
忘れていた大切なものを思い出した感じです。
こんな思いははじめてで、自分でもびっくりしてしまったのでした。
私達は一体どこから来たのでしょうか。
手島右卿先生は、そんな私達の共通の故郷の境地に達せられていたのかもしれない、
それが、『寂寞無事哉』の境地と関係するのかな?
そんな想像をしながらも、思い出すと今でも泣けてくるので、なるべく、忘れるようにしているのです..。